相変わらず稚拙な報道
この事件は日本の裁判所では無罪が確定した事件だ。今朝はその報道が続いている。内容としては、国民がだいたい思っているようなことを代弁しているのではないかという印象はある。しかし問題は、その国民がだいたい思っているようなことだ。これを作り上げたのは、雑誌でありテレビであり報道機関だ。我々国民は、いまでこそインターネットで個人的に情報のやりとりができるけれども、ロス疑惑事件の時代には、情報の送り手は専ら報道機関だった。そして、国民が思うことは、全て報道機関によって与えられた情報に基づいて判断をしたものだ。
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間違いのない判断を自分で行うためには、(1)事実に自ら接すること、(2)その事実に基づいて自ら評価することだろう。
事実に自ら接していなければ、入り口で誤っているかもしれないわけで、必ずしも正しい判断は出来ない。事実に自ら接しても、他人の評価を受け入れただけでは、自分の判断とは言えない。
報道機関の報道は、昔も今も、国民に間違いのない判断を自分で行わせるようなやり方になっていない。事実の報道の部分につき、情報を取捨選択している。情報の取捨選択は、わかりやすい事実報道のための編集として必要なことはよくわかる。しかしこの取捨選択は、「大切なものと、どうでもいいもの」を区別するための取捨選択であるべきだ。
ところが実際の報道では、「自社の判断を支えるものと、支えないもの」を区別するために取捨選択して事実報道をしているように見えて仕方がない。
国民が本来欲しているのは、「報道機関の判断」ではなく、「事実の提供」だ。
ロス疑惑事件の渦中では、私もそうだが国民の多くが報道機関の判断を受け入れた。その後遺症というべきか、無罪が確定した後にも、怪しいという意識が続いてしまう。実際、件の彼は、無罪確定後にも奇行を繰り返していたようであり、饒舌で動じない物腰とあいまって、怪しさが維持されてしまった気がする。
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今朝のニュース番組ではどの放送局も、「疑惑は闇の中に」と報道している。
評論家たちも、疑惑の解明が出来なくて残念、日本の裁判では灰色無罪だったから米国の裁判に期待していたのに、との論調だ。こういう報道ってアリだろうか?
もちろん、国民の個々人がそのように思ってしまうのは仕方ない。実際私もロス疑惑事件の当所から報道機関によってすり込まれた情報判断によって、多かれ少なかれそう思ってしまう。また、被害者の遺族が強くこれを主張することも全く構わないと思う。被害者の遺族は少なくとも我々国民よりよほど自ら事実に接して自ら判断しているだろうから。
問題は、「報道機関が」こぞってこんなことを言っていいのかということだ。
報道とは、客観性を持つべきもの。第一には事実を正確に伝搬させることだと思う。元被告人は、日本の法制度の下では、無罪が確定しているわけであり、それが相変わらず「疑惑」であるとか「灰色無罪」だったとすることは、日本の法制度そのものを否定している。もし報道するのであれば、灰色無罪は有罪にすべきだ、法改正すべきだ、言えばよい。疑われるようなやつはどしどし処罰せよという意見を展開すればいいのだ。
彼が生きていたときでも、今回自死した後でも、日本の報道機関は、米国による疑惑の解明に日本は期待しているような報道の仕方で一貫している。「あっしらの裁判ゴッコじゃあ真犯人を処罰できなかったんで、ど〜も、親分、ひとつ星条旗のもとで怪しいヤツをとっちめておくんなさい」と尻尾を振っている日本の姿を印象づけていないか。
稚拙な報道のために、所詮、日本なんてナンボのもの、と思われている。


