法律と常識
法律を学び始めた学生時代、同級生と話をしていると、とかく法律用語が得意げに入り交じる。
会話の中に法律用語が入り交じるだけなら洒落にもなる。しかし、例えば親戚だとか、学外の友人知人だとか、こういう法律に無縁な人が抱える日常のトラブルに、したり顔で法律知識を披瀝したくなったりする。これが結構危なかったりする。
学生の浅薄な知識から来る危なさというよりも、法律と常識が逆転してしまいかねない危なさだ。
例えば契約。法学部の学生であれば、2年生くらいになると民法で習う分野だ。授業では、おそらくイの一番に教授から、「契約は口約束で成立します。契約書を交わす必要はないのが原則です。」と教わるはずだ。不動産だろうとなんだろうと、<売った買った>と言い交わせば売れてしまうし買えてしまう、そのことに契約書などの文書は必要ない、というのが教科書的な法知識として正解だ。
しかし、だ。 これをそのまんま実社会に適用するととんでもないことになる。
例えば、この知識を今日授業で聴いてきた学生に、自動車ディーラーの新人営業マンになった兄貴がいたとする。
この兄貴、弟に、「車売るって大変だぜ。お客なんて、口では買う買うって言うのに、いざ契約書出すと値引きだの何だの言ってなかなかハンコ押さねえんだ。」と弟に愚痴ったとする。自動車ディーラーにとって、お客さんに車を買ってもらうこととは、即ち<契約書にハンコをもらうこと>だというのが常識だろう。
ところがこの弟、せっかく学びたての民法の知識を兄貴に教えてやろうと、「いや、兄貴、そうじゃないぜ。民法では、口約束で有効なんだ。だからお客が買うって言ったらそれで車は売れたことになる。契約書なんて関係ないからさっさと納車しちゃえばいいんじゃね?」とアドバイスした。
これを真に受けた兄貴が、翌日、お客さんに対して、契約書がなくたって買うと言ったんだから買ってもらうなどと言って意気揚々と納車に行ったとしたら、上司からとんだ大目玉をくらうだろう。
つまり口約束だけで車が売れたなどとは考えてはいけないということだ。これが全くの常識である。
実は法的にも、自動車や不動産などの高額商品の売買では契約書の調印をもって契約の成立と考えるのが当事者の意思解釈や慣習に適うというべきだ。だから実はここでの常識と法律は乖離していないと言えるのだが、こんな当たり前の常識も、法律をかじってしまったからこそ見えなくなる。
このように、法律を杓子定規にとらえると、常識外れのことになったり、或いは、見えていた常識が見えなくなってしまう場合がある。
法律とは、常識を実現するためのツールだ。大工さんがカンナで材木を削っているうちに材木がなくなってしまったら元も子もない。法律の三段論法で導き出された結果であれば常識に反していても正しい、などとはゆめゆめ思ってはならない。ツールはツールでしかない。脇役は脇に控えておればよいのだ。
だから、常識的な結論を導くために、どんな法律を適用したら良いのか、またその法律を適用した結果非常識な結果になりそうであれば、どのようにその法律を解釈したら良いのか、これこそがプロフェッションである法曹の腕の見せ所である。
法律学は論理学であるが、コンピュータプログラムではない。常識に応じて変化するファジーな結論の実現に向けて、法律そのものを人の知恵で補いつつ使ってこそ生きてくる。一流の大工さんが使っているカンナや、一流の板前さんが使っている包丁は、素人が使っても同じように使えるわけではないだろう。ツールよりも腕前であり、この腕前こそ、人の知恵であり常識であり、正義として昇華すべきものだ。
我々法曹にとって研鑽すべきは、カンナや包丁を研ぐが如き法的知識の習得も必要ではあるが、さりながら、自分の常識感覚を研ぐこと、これこそ最も重要だろう。
そして常識と一言で言っても、この感覚を研ぐことはなかなかに難しい。というのも、局面に応じては、ある人にとっては常識でも別の人にとっては非常識と言うこともありうるからだ。実は様々な常識がありうるのが世の中だからだ。
とはいえ、例えば「人を殺してはならない」というような、<ベクトル>としての常識とか正義と言うものはあるんだろうと思う。こういう<ベクトル>の向きをしっかり身につけて、自信を持って維持する。こういう心がけが我々のプロフェッションの根底を支えていくものではないかと思うのだ。


