私の場合、食べ物はタイ料理、文章は坂口安吾、音楽はワーグナーだ。
タイ料理や坂口安吾の話はまた別の機会に譲るとして、なぜワーグナーか。とりわけニーベルングの指輪をこのところエンドレスにききまくっているわけだが、このあたりを顧みてみたい。
学生時代、ワーグナー前奏曲ならかなりあれこれ聴き比べた。お約束のニュルンベルクのマイスタージンガーやタンホイザーだ。そもそも私がクラシック音楽に目覚めたきっかけは、小学校6年生の時にバーンスタインのベト5に接して、中学1年生の音楽の時間にワーグナーのタンホイザー序曲を聴いたあたりからだ。実に俗っぽく無難なところだ。
で、ワーグナーといえば、じゃんじゃかな豪華絢爛序曲作家だと思っていた。ニュルンベルクのマイスタージンガーやタンホイザーやさまよえるオランダ人や、有名どころはたいがいハリウッド映画のテーマに使えそうなじゃんじゃかだ。
そのワーグナーが、どうやら全曲上演に4夜もかかるオペラを書いているらしい。いや、オペラといっちゃいけなくて楽劇だとか祝祭聖典なんたらだとか、とにかくなんだかわからんけどフツーじゃない蘊蓄が含まれる壮大なオペラいや楽劇があるんだという話を聞いて、当時、是非聴きたいと思った。初めて聴いたのが20歳くらいのころで、お約束のデッカのショルティ・VPO盤である。ところが、これが全くツマラナイ。当時のCDはまだ高価品だったから、小遣いはたいて組モノを買ったのに損したと怒り心頭だった。
このころの私の頭には、オペラといえば既にモーツァルトが擦り込まれていて、先入観としては、このニーベルングの指輪だって、きっと、(1)じゃんじゃかな豪華序曲で開幕、(2)幕が上がって舞台では華麗なメロディとともに主役のアリア、(3)チェンバロ伴奏でレチタティーヴォ、(4)(最初に戻る)、みたいなのをイメージしていた。
ところが序夜「ラインの黄金」は、まるでボレロの小太鼓抜きのようなうねるメロディとリズムがじわじわとクレシェンドしてゆき、どれがメロディなんだかどこまでが序曲なんだかわからないままに唐突に歌声が入る。いやはや、である。レポレッロはどうした!?である。
そしていつまでたってもうねりまくる歌が終わらない。曲も終わらない。主役が誰なのかも分からない。果たしてメロディーもなんであるやら掴み所がない。曲だとか歌だとかの終わりがないまま、どうやら次の歌のような場面のような何かが転換したような感じだけは薄々と判明する。チェンバロはどこだ!?である。
かくしてCD1枚聞き終えても、どろどろの音と歌のうねりをだらだら聴かされただけというのが当時の印象だった。CD2枚目も全く代わり映えせずそんな感じだったから、そのまま全く聴かずにお蔵入りしていた。シェーンベルクが論外な次くらいに聴かなかった。
こうして20数年経った。
先日、書店で、「はじめての《指環(リング)》」という新書がたまたま目に留まった。既に「リング」といわれたら、ニーベルングではなくて、貞子だ。ぎゃあ怖いなあとか思ってよく見たら、サブタイトルに「ワーグナー《ニーベルングの指環》完全聴破への早道」とあった。おお、そういえば恐怖小説以外にもワーグナーの楽劇でこんなのがあったっけ。
と思い出して、自宅に帰ったところでCD棚の奥底から「ラインの黄金」を引っ張り出してみた。聴いた。
驚くべきことに、これが突然、素晴らしいのだ。
20数年前にはだらだらした音のうねりとしか思えていなかったものが、自然に体に入ってくる。心地よい。音が体にしみ込んでゆく感じ。聴いていて抵抗がない。相変わらず音はうねっていてレチタティーボもアリアもなく口ずさめるようなトビキリのメロディーも乏しいわけだが、そういうステレオタイプなオペラでなくとも、音そのもの歌そのものをまさに流れるままの楽劇としてそのまま受け入れることができる。
実は同じ感じをブルックナーでも覚えていて、20数年前には武骨なうるさいだけの巨大構築物という程度にしか聞こえない交響曲だったのが、最近は、実に自然に入ってくる。
耳が肥えたのか、齢を重ねたのか、単なる気分次第か。
こんな味をしめて、最近、昔は聴けなかった曲を次々CDの棚から引っ張り出して聴いてみている。さすがにシェーンベルクはまだ心地よいとは思えないのだが、20数年前に著名だからとか売れ筋だからということで購入して殆ど聴かずにお蔵入りさせていたCDが、今になって次々自分の部屋から発掘されている。まさに冷泉家の蔵の如く、有り難う、昔のオレ、といった感じである。
ちなみに昔のオレの所蔵だけでは飽き足らず、すでにここ数週間で、ショルティ全曲盤、クナッパーツブッシュ「ワルキューレ第一幕」、レヴァイン全曲盤DVDと立て続けに聴いてみている。何事でも、どうも唐突に凝り性でいけない。


